45城目は高天神城。徳川・武田の両雄が奪い合った要衝の山城だ。
築城時期は不明だが、16世紀初めには今川氏の家臣福島(くしま)氏が高天神城主になっていたと伝えられる。
その後、小笠原氏が城主となったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元が討たれると今川氏は衰退、逆に三河の徳川氏が東に勢力を広げていくと、小笠原氏は徳川家康に臣従した。
その頃、甲斐の武田信玄も勢力を増し領土を拡大、ついに元亀2年(1571)に遠江に侵攻、高天神城を攻めたが、攻め落とすことが出来なかった。この戦いで高天神城は「難攻不落の城」として名を広めた。
天正元年(1573)、武田信玄が没すると信玄の子勝頼が後を継ぎ、天正2年(1574)に遠江に侵攻し高天神城を包囲、約2か月の籠城戦の後、兵糧弾薬の尽きた小笠原長忠が開城し、高天神城は武田氏のものとなった。
勝頼は城を改修し城番を置いたが、奪還を目論む徳川氏は横須賀に城を造り、さらに高天神城を囲む攻撃用の砦を六つ(高天神城六砦)を造り、城を孤立させた。
天正9年(1581)、援軍の見込みがなく、兵糧弾薬が尽きた城兵は覚悟を決め、城から打って出て激しい戦いの末全員討死、戦いは終わり、高天神城は廃城となった。

高天神城は、菊川下流の平野部からやや離れた北西部に位置する標高132mの鶴翁山に築かれた。
尾根の鞍部(尾根が中くぼみになった所)にあたる井戸曲輪を境にして東峰と西峰に大きく分かれ、一城別郭(二つの曲輪群が補完しあって一つの城として機能する)と呼ばれる構造を持つ。
東峰には本丸や御前曲輪などの曲輪群が、西峰には西の丸を中心にして、二の丸、袖曲輪、堂の尾曲輪などが配された。
山自体が急峻で、かつ効果的に土塁や堀割が設けられたことにより、堅固な中世城郭となっていた。

搦手門跡
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三日月井戸
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井戸曲輪にある「かな井戸」
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袖曲輪
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堀切
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二の丸堂の尾曲輪
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井楼曲輪
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空堀
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馬場平
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本丸
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本丸土塁
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御前曲輪
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御前曲輪からの景観
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見学時間:1時間15分(別にスタンプ押印・車利用15~20分)

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高天神城は、山城であるが搦手門駐車場を利用すると見学しやすい城であった。急峻な地形、各所に設けられた堀切が印象的な城であった。
(見学日2020/10/22)



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